大判例

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東京地方裁判所 平成3年(ワ)5994号 判決

原告

イネス・ヴィクトリア・マリン・デ・クオン

ロルデス・マリサ・クオン・マリン

マリエラ・デル・カルメン・クオン・マリン

ルイス・マルティン・クオン・マリン

右二名法定代理人親権者母

イネス・ヴィクトリア・マリン・デ・クオン

右四名訴訟代理人弁護士

柏木俊彦

野田雅生

加藤了

田中俊夫

被告

慶應義塾

右代表者理事

石川忠雄

右訴訟代理人弁護士

藤堂裕

寺上泰照

岩下圭一

松岡浩

是枝辰彦

比護隆證

右訴訟復代理人弁護士

鹿野元

宮城朗

主文

一  被告は、原告イネス・ヴィクトリア・マリン・デ・クオンに対し、金二五〇〇万円、原告ロルデス・マリサ・クオン・マリン、同マリエラ・デル・カルメン・クオン・マリン及び同ルイス・マルティン・クオン・マリンに対しそれぞれ金一〇〇〇万円並びに右各金員に対する平成三年五月二五日から支払済みまでいずれも年五分の割合による金員を支払え。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

三  この判決は、仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、ペルー人であるルイス・ギェルモ・クオン・モンタルヴォが、腹痛により慶應義塾大学病院内科の診察を受けた際、重篤な虫垂炎であるにもかかわらず、担当医師がこれを見落とし、鎮痛剤等の投与をしたのみで帰宅させたため、翌日早朝容態が急変して死亡するに至ったとして、診療契約上の債務不履行ないし不法行為による損害賠償請求権に基づき、遺族が逸失利益等の一部の請求及びこれに対する訴状送達の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

一  争いのない事実等(特記しない限り当事者間に争いがない。)

1  当事者

(一) ルイス・ギェルモ・クオン・モンタルヴォ(一九四四年一月一五日生まれ。以下「クオン」という。)は、ペルー共和国の国籍を有する者で、同国リマ市に本店のあるミンペコ・エス・エーという企業の極東営業所(東京都港区高輪三丁目一六番四号所在)所長として来日し、一九八九年(平成元年)四月二八日に死亡するまでその職にあった者である(甲一二、一三)。

(二) 原告イネス・ヴィクトリア・マリン・デ・クオン(以下「原告イネス」という。)は、クオンの妻であり、同ロルデス・マリサ・クオン・マリン(以下「原告ロルデス」という。)、同マリエラ・デル・カルメン・クオン・マリン(以下「原告マリエラ」という。)及び同ルイス・マルティン・クオン・マリン(以下「原告ルイス」という。)はいずれもクオンの子である(甲一ないし四)。

(三) 被告は学校法人であり、慶應義塾大学病院(以下「被告病院」という。)を設置、運営する者である。

2  本件診療の経過

(一) クオンは、一九八九年(平成元年)四月二四日ころから腹部に不快感があったところ、同月二七日、腹痛のため被告病院内科に診察を求め、同病院との間に診療契約を締結した。

(二) 被告病院においては、内科(消化器科)の石井裕正医師(以下「石井医師」という。)が診察にあたった。同医師の指示により、クオンの白血球検査を実施したところ、白血球数は一万四〇〇〇と増加していた。同医師はクオンに対し鎮痛・鎮痙剤を投与し、翌日の再来院を指示した上帰宅させた。

(三) クオンは、同月二八日午前二時ころに容態が悪化した。同日二時一八分ころ救急車が同人宅に到着した後、同人は、同日二時五〇分ころに東邦大学医学部付属大森病院に緊急搬送されたが、同日午前三時一三分、同病院において死亡が確認された(甲五、九)。

(四) 同日、クオンの遺体について、東京都監察医務院において、同病院青木利彦医師の執刀により死体解剖が行われ、死体検案書が作成されたが、同書面には、同人の直接死因として「腹膜ショック(推定)」、その原因として「急性化膿性虫垂炎」及び解剖の所見として、「1急性化膿性虫垂炎、2局所性化膿性腹膜炎、3膵間質内出血、4腎盂粘膜下溢血、5気管粘膜下溢血、6諸臓器うっ血」と記載されている(甲七)。

二  原告らの主張

1  被告病院受診前後の経過について

(一) 一九八九年(平成元年)四月二七日早朝、クオンが激しい腹痛を訴えたため、原告イネスは同日午前七時前に予てからの知人である日系ペルー人の添田セザルに電話で相談した上被告病院の紹介を受け、同日、クオンは被告病院内科を受診した。通訳として付き添った右添田によると、クオンは石井医師に対し、下腹部痛を訴えていた。

(二) 診察後、クオンは午後四時ないし五時ころタクシーで帰宅したが、そのままベッドに直行し、家族と会話を交わすこともなく、また食事も受け付けないなど、相当衰弱した容態を呈していた。そして翌二八日午前二時ころから容態が更に悪化したため、原告イネスが警察に連絡したものである。

2  被告の責任

(一) クオンは、四月二七日早朝より腹部の激痛を訴えかつ血便が出て、虫垂炎に罹患し、腹部に重篤な病変を呈していたにもかかわらず、石井医師は、十分な検査等をしないままこれを見落とし、単に鎮痛・鎮痙剤を投与しただけで入院措置もとらず帰宅させたものであって、これによりクオンは適切な診療時期を逸し、死亡するに至ったものである。

(二) クオンの死因は、急性化膿性虫垂炎に起因する腹膜ショックである。

解剖した結果、クオンの虫垂はほとんど真っ黒に変色しており、重篤な出血症状を呈していた。虫垂に通常内容物はないのに、虫垂内に汚黄赤液が認められ、膿と血液が混ざって虫垂内に滞留していたものであり、更に虫垂間膜にも出血が見られ、回盲部腸管の漿膜に著しい充血が見られることなどからすれば、クオンの虫垂炎は非常に重篤なものであった。そして右虫垂炎は局所性腹膜炎ひいては菌毒血症を惹起して病変が全身に及んだものである。被告は局所性腹膜炎とは腹膜ショックを起こす可能性のない軽微なものと主張するが、医学上、局所性だからといって、軽微であるとはいえない。虫垂を中心とした周囲の回盲部に腹膜炎が発症している状態を指して、剖検記録上「局所性化膿性腹膜炎」とされているにすぎない。

(三) 本件診療契約については、当事者間で準拠法の定めがないから、法例七条二項により行為地法である日本法が準拠法となるところ、被告は、履行補助者である石井医師の過失によってクオンを死亡させたものであるから、右診療契約上の債務不履行責任を負う。

(四) また、法例一一条一項により、不法行為責任についても行為地法である日本法が適用になるところ、クオンに対する石井医師の診療行為は、被告の業務の執行について行われたものであるから、被告は民法七一五条一項による責任を負う。

3  損害

(一) クオンの逸失利益として、一億二八九九万七四〇〇円

クオンは、死亡当時四五歳で、前記のとおりミンペコ・エス・エーの極東営業所長の地位にあり年収一四〇〇万円を得ており、稼働可能である六七歳までの二二年間について逸失利益は、一億二八九九万七四〇〇円である。

(二) 慰謝料として、二四〇〇万円

原告らは、一家の支柱であるクオンを突如失ったものであって、専業主婦である原告イネスは、その余の原告らである三人の子供を抱えて経済的に困窮するなど、原告らの受けた精神的衝撃は筆舌に尽くし難いが、右精神的損害を金銭に換算すれば、原告イネスについて一二〇〇万円、その余の原告らについてそれぞれ四〇〇万円が相当である。

(三) 原告らは、右(一)及び(二)の損害の合計額のうち、原告イネスについて二〇〇〇万円、その余の原告らについていずれも一〇〇〇万円を請求する。

(四) 原告イネスは、原告ら代理人に対し、本件訴訟の成功報酬として五〇〇万円を支払う旨約した。右弁護士費用は、本件事故と相当因果関係のある損害である。

4  よって、原告らは被告に対し、いずれも債務不履行ないし不法行為による損害賠償請求権に基づき、原告イネスについて二五〇〇万円、その余の原告らについていずれも一〇〇〇万円及び右各金員に対する本件訴状送達の翌日である平成三年五月二五日から支払済みまで、いずれも民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるものである。

三  被告の反論

1  クオンの被告病院来院時の診察の状況について

(一) クオン来院時の主訴は、腹痛及び血液が付着した便であった。体温は36.8度、脈拍八〇(規則的)で特に異常は認められず、問診の結果によってもタール便の経験、吐き気、体重減少はなかった。腹部は平坦で柔らかく、筋性防御、圧痛はなく、特別の所見は見られなかった。クオンが訴えた腹痛は上腹部痛であり、腹痛の症状もそれほど強いものではなかった。

(二) 石井医師は右の状況を把握した上、血液検査、血清検査、新鮮尿検査、赤沈検査及び腹部単純レントゲン撮影を行ったところ、血液検査については白血球数が一万四〇〇〇と中程度の増加を示した以外には異常がなく、レントゲン撮影の結果によっても腹部ガス像に異常はなく、腸腰筋陰影も鮮明で後腹膜の炎症を疑わせる所見はなかった。

(三) 石井医師は、右検査結果が出るまでの間、クオンに対し、鎮痛・鎮痙剤二筒を二〇〇ccの生理食塩水に混入して点滴投与したところ、腹痛が軽快し、理学的にも腹部に著変がみられなかったため同人を帰宅させることにした。ただ、白血球数の増加から炎症性病変の存在が疑われたことから、症状の推移を確認するために翌日の来院を指示した。

(四) 以上のように、被告病院はクオンが訴えた症状に対して、医学的に必要にして十分な措置をとっており、被告病院に診療上の過失はない。確かに、同人を帰宅させた時点では、急性化膿性虫垂炎であるとの確定診断を得たわけではないが、少なくとも、二四時間以内に急死する危険性のある重篤な症状はなかった。

2  解剖所見及びクオンの死因について

(一) クオンの死因として、腹膜ショックを想定することはできず、また同人の化膿性虫垂炎から感染性のショックに至る可能性もない。それは以下の理由による。

(二) ショックについて

(1) ショックとは、臓器・組織の血液循環が障害され、それらに十分な圧と量の血液の潅流が得られなくなって全身的な諸種の症状・症候を呈してきた状態を指し、その原因を大別すると、①低血量性ショック(外傷、手術ないし消化管出血等によって短時間に大量の血液が失われることにより、末梢循環を維持することができなくなることによって発生するショック)、②感染性ショック(重症感染が原因となって引き起こすショック。なかでもグラム陰性桿菌による感染の場合に、菌体内毒素(エンドトキシン)によるショックの頻度が高いとされている。)、③神経原性ショック(驚愕、恐怖等の強い精神的な衝撃、あるいは心窩部強打や手術中の腹腔内臓器の牽引による刺激によって、細小動脈、細小静脈の血管運動神経に変調をきたしてショックに至るもの。その原因となる身体的状態の異常が先行していないという点で一次性ショックといわれ、生体の拮抗作用が働くため、多くの場合、治療を要せずして短時間のうちに回復する。)等に分類される。

(2) 剖検記録によれば、クオンの死因は腹膜ショックとされているところ、右はショックの類型としては医学的な定義が曖昧である。これを腹膜に関連して発生するショックと捉えるならば、通常、汎発性腹膜炎や穿孔性腹膜炎に続発する感染性ショックや低血量性ショックが論じられ、この場合には、腹膜炎がどの程度に重大なものになっているかが重要であって、クオンの場合には、後述のように局所的で軽微な炎症であったものであるから、右腹膜炎から直ちにショックを起こすことはない。

また腹膜ショックについて腹膜に受けた物理的な刺激によって発生するショックと考えれば、これは神経原性ショックに該当するが、右ショックは前述のように一次性ショックであって、殆どの場合自然に回復するとされていること、また腹膜は腹腔内に存在する組織であるから、外部から物理的刺激を受けることは稀であると考えられることから、これが死因になるとは考え難い。

(三) 虫垂炎及び腹膜炎について

(1) 虫垂炎は、虫垂の内腔が何らかの原因(糞石、異物等)により閉塞されることによってもたらされる虫垂壁の感染と血流障害によって説明される疾病であり、その進行に従い、①炎症性虫垂炎(カタル性虫垂炎・虫垂内腔の閉塞により虫垂内圧が上昇し、リンパ液が滞留して粘膜の浮腫を生じた状態。この段階では、細菌が右粘膜面に作用してびらんを形成する。)、②蜂巣炎性虫垂炎(化膿性虫垂炎・毛細血管や細静脈が閉塞し、うっ血を生じて粘膜下組織まで浮腫状となった状態。この段階では細菌が虫垂壁に侵入し、内部に微小な膿瘍を形成する。これらの膿瘍が広がると壁側腹膜を刺激して腹膜刺激症状を呈するようになる。膿瘍が発達した段階を化膿性虫垂炎と呼ぶ。)、③壊死性虫垂炎(虫垂壁の細動脈血栓が生じ、それによる血流障害によって虫垂壁の部分的壊死に至った状態。)に分類され、更に穿孔に至る。

(2) 剖検記録によれば、クオンの虫垂は棍棒状の形状をしており、周囲組織との癒着はないのであって、虫垂炎は未だ虫垂内部の病変に止まっている。また漿膜は外観上赤くなっており、虫垂組織内に炎症があって出血していることを示しているが、出血自体は漿膜(腹腔内に面した第一層の組織)下に止まっており、腹腔内への出血とはなっていない。虫垂の内容物は、膿と血液の混じった炎症産物と考えられ、化膿性炎症としてある程度進行していたものと言えるが、前記来院時の検査結果及び体温がほぼ平熱であったこと等に照らして、救急的医療措置を施す必要のある重篤な感染症にまでは至っていない。

(3) また剖検記録によれば、クオンの腹膜は、灰白色で表面は滑らかな状態であるとされ、限局性化膿性腹膜炎とされた一部の発赤が見られるほかには特段の所見はなく、全般的にはほぼ正常であった。発赤とは炎症の第一段階で、これを漿液性炎症といい、更に進行すると化膿性炎症、壊死性炎症に至る。本件腹膜炎は、虫垂の化膿の影響で周辺臓器等の癒着の機序が作用し始めている段階の炎症であると考えられることから、右漿液性炎症から化膿性炎症に至る中間的な段階にあったものにすぎない。

(四)(1) 以上からすれば、クオンの腹膜炎は、医学的に見て低血量性ショックや感染性ショックなどの腹膜ショックを引き起こす可能性がない軽微なものであるから、「腹膜ショック」を死因と考えることはできない。

(2) また、化膿性虫垂炎についても、重篤な感染症には至っていないものであるから、これを原因としてショックに至る可能性もない。

この点原告らはクオンが菌毒血症に罹患していたと主張するが、菌毒血症は、感染による膿瘍形成が相当程度進行し、通常の生体防禦機構が奏功し難くなっている状態であるから、通常の抵抗力をもったヒトがこの状態に至るまでには効果的な治療を行わなくとも数日から数週間程度の時間とその間の症状の経過が必要であるのに、本件ではこのような経過がないこと、菌毒血症のような重篤な感染症に罹患した場合には、通常著明な消化管出血等の所見があるのが普通であるが、本件剖検記録によっても、胃内部の少量の出血と胃底部に小びらん数個が発見された以外に消化管出血の所見はなかったこと、から根拠がない。

四  争点

1  クオンの死因は何か。

2  クオンの診察時において、被告(石井医師)に虫垂炎を見落とした過失が認められるか。

3  原告らの損害

第三  争点に対する判断

一  原告らの訴訟能力及び準拠法について

1  訴訟能力について

民訴法四五条、法例三条一項は、訴訟能力の準拠法は本国法によると規定するところ、甲二ないし四号証によれば、原告ロルデス(一九七五年一〇月七日生まれ)、同マリエラ(一九七七年六月二四日生まれ)及び同ルイス(一九七九年一月一〇日生まれ)は、いずれもペルー共和国の国籍を有しているので、準拠法はペルー共和国法である。ペルー共和国民法四四条によれば、一八歳未満の者は比較的無能力者とされ、同法四五条によれば、親権者が法定代理人となることとされているところ、本件口頭弁論終結時において、原告ロルデスは一九歳であって成年に達しているが、原告マリエラと同ルイスは未成年者である。

2  準拠法について

本件治療契約(その締結について争いがない。)については、当事者間に準拠法の定めがないから、法例七条二項により行為地法である日本法が準拠法となり、また、本件法律関係を不法行為であると考えたとしても、その原因となる事実が我が国において発生しているから、法例一一条一項により、日本法が準拠法となるものと解される。

二  クオンの臨床経過等について

前記認定事実(第二の一の2)及び証拠(甲七ないし一一、一六の2、乙一ないし四、証人石井裕正、同青木利彦、鑑定)によれば、次の各事実が認められる。

1  クオンは、一九四四年(昭和一九年)一月一五日生まれで一九八九年(平成元年)四月当時四五歳であったところ、同人の体格は身長一六八センチメートル、体重七三キログラムで肥満傾向ではあったが、毎年冬に鼻炎にかかる程度で特に既往歴はなく、健康であった。

2  クオンは、同月二四日ころから腹部に不快感を訴えていたが、同月二七日午前六時ころから間歇性の激しい腹痛に襲われ、かつ血便の症状を呈したため、原告イネスは予てからの知人であり、被告病院にスカラーシップとして在籍していた添田セザルに電話して被告病院の紹介を依頼し、クオンは右添田と被告病院において待ち合わせの上、一人で自宅を出て被告病院に向かった。

3  クオンは、同日午前、被告病院内科を受診し、石井医師が診察を担当した。クオンは、同医師に対して、同日午前中から腹痛が出現したこと、便に点状の出血が付着していたこと、酒はワインをグラス一杯飲む程度であること、これまでにタール便の経験や嘔気はないこと、肛門痛、体重の減少はないこと、仕事は多忙であり、同月二四日ころから腹部に不快感を感じていたことを話し、また同医師はクオンに対し食欲、睡眠、便通、排尿について尋ねたが、いずれも特に異常はなかった。以上の会話は英語により支障なく行われ、クオンは特に顔貌も苦悶状は呈しておらず、診察用の椅子に腰掛けて面接を受けた。

4  クオンの初診時の体温は36.8度、脈拍は八〇/分で不整脈は見られなかった。また頸部及びその周辺のリンパ節(ウィルヒョウ氏リンパ節)は触知せず(消化管癌のリンパ節転移が疑われる場合の重要な所見である。)、甲状腺の腫大も見られず、胸部は心音鈍で異常なかったが、咽頭粘膜に軽度の発赤を認め、咽頭部の炎症を思わせた。腹部はほぼ平坦で柔らかく、肝を右乳腺上で肋骨弓下に一横指触知したが、正常の硬さであった(触診上、肝の異常は認められなかった。)。

主訴である腹痛については、クオンは心窩部から臍部にかけて間歇的な腹痛を訴え、石井医師の診察によって同部位の圧痛を認めたが、腹部全体について抵抗や筋性防御は認められなかった。なお「抵抗」及び「筋性防御」とは、腹膜の炎症部位が外部からの圧迫を受けるなどして腹壁や腹腔内臓器と接触する際に、反射的に腹壁の筋肉が緊張して圧迫に抵抗する生体の防御反応をいい、硬直の範囲の広狭により使い分ける。

更に石井医師は腹痛の原因を検索すべく、血液及び尿を採取して血液検査、肝機能検査、膵胆道系機能検査、赤血球沈降速度検査(血沈)を実施したところ、白血球数が一万四〇〇〇と増加していたため、同医師は、急性虫垂炎も含めた腹部の急性炎症の可能性を認めた(なお翌二八日以降に判明した検査結果によれば、クオンの白血球のうち、多形核白血球が九一パーセントあり、炎症性疾患の存在を示していた。)。一方同医師は、腹部単純レントゲン撮影を行ったが、腹部のガス像は正常(限局性の腸管麻痺によるガスの貯留がないことを示す。)であり、腸腰筋陰影も明瞭(後腹膜に炎症が波及していないことを示す。)であった。

しかし、血圧測定及び腹部について右以外の診察は行われなかった(この点、証人石井裕正は血圧測定、虫垂炎の圧痛点(マックバーネー点及びランツ点)検索は実施した旨証言するが、いずれについてもカルテ上に記載がなく、右証言は採用できない。)。

5  石井医師は、クオンを処置室のベッドに寝かせて安静を保った上、二〇〇ccの生理食塩水に鎮痙剤としてブスコパンを二アンプル(クオンの場合、肥満傾向があったため、二アンプルを使用した。)混ぜ、それを三〇分かけて点滴静注して経過を観察したところ、クオンの腹痛はほぼ消失した。石井医師は、この間、助手に処置室に行かせて状態を観察させ、また点滴の終わり頃には、腹部所見の変化を確認するため、同医師自ら処置室に赴いて経過観察をするなどしていた。

6  石井医師は、クオンに対し、セスデン(副交感神経遮断剤。腸管の炎症、潰瘍に伴う痛みに使われる。)、メサフィリン(胃炎、十二指腸炎及び消化器潰瘍の際に制酸作用を持ち、胃腸の粘膜保護作用がある。)及びベリチーム(総合消化酵素剤)を四日分処方し、翌日も継続して診察する必要のあること、仮に状態が悪化した場合には、翌日を待たずしていつでも再受診するべきことを伝え、クオンは翌二八日の診察の予約をして帰宅した。

7 クオンは、同月二七日午後四時ころ帰宅したが、午後七時ころ突然悪寒がし、アスピリンを二錠服用の上、ソファに横たわったまま就寝した。翌二八日午前一時ないし二時ころ、クオンは苦痛を訴え、ほとんど意識のない状態となって、後には大いびきをかき始めたため、原告イネスは同日午前二時一三分ころ、警察を通じて東京消防庁大森消防署に救急車の出動要請をした。救急車による搬送中のクオンの状態は、意識レベル三〇〇(JCS(Japan Coma Scale)による意識レベルの判定基準であり、痛み刺激に全く反応しない状態をいう。)、呼吸感ぜず、脈拍触れず、瞳孔左右八mm対光反応なし、口唇部チアノーゼ、容態変化なしであり、午前二時五〇分ころ、東邦大学医学部付属大森病院に到着した際には、心拍、呼吸はない上、瞳孔は散大して対光反射もなく、DOA(到着時において既に死亡)の状態であった。同病院において心肺蘇生術を試みたが、反応はなく、同日午前三時一三分、同人の死亡が確認された。

同病院において実施されたクオンの血液検査の結果では、カリウム値(6.9、正常値3.2〜4.5)、血糖値(四二一、正常値七五〜一一六)、CPK値(一五三、正常一八〜八六)、LDH値(二五三、正常値一一八〜一八九)、クレアチニン(1.8、正常値0.8〜1.2)及びアミラーゼ(六二五、正常値一三〇〜四〇〇)にそれぞれ異常が認められた。

8  同日午後〇時五〇分ころから、東京都監察医務院の青木医師の執刀により、クオンの死体解剖が行われた。その結果によれば、クオンの虫垂は長さが九センチメートル、棍棒状で、内容物として汚黄赤液を含み、漿膜は発赤し、周囲に厚層出血をしていた(但し、漿膜下の出血であり、腹腔内部には出血は認められなかった。)が、癒着はしていなかった。同医師は右虫垂の状態について、急性化膿性虫垂炎と判断した。また腹膜は灰白色で、表面は滑らかであったが、虫垂の周囲の体壁腹膜に拳大程度の発赤が認められ、局所性腹膜炎の状態(汎発性には至っていない。)であった。また、膵間質内出血、腎盂粘膜下溢血、気管粘膜下溢血、血液流動性及び諸臓器うっ血という、ショック死に伴う諸症状が見られた。また軽度の心肥大(三六〇グラム・一割弱の肥大状態)が認められたが、冠状動脈には異常はなく、心筋梗塞の病理所見は認められなかった。そこで、同医師は、クオンの直接死因は「腹膜ショック」、その原因となる疾患としては「急性化膿性虫垂炎」(壊疽性虫垂炎に近い。)であると判断した。但し、腹膜に外的な力が作用したのではなく、また汎発性にも至っていないことから、剖検記録には、腹膜ショックにつき「推定」と付記した。

9  更に、本件について、当庁において桑原紀之医師(自衛隊中央病院・病理学)及び平井慶徳医師(昭和大学医学部客員教授・外科学)を鑑定人として選任した上、病理鑑定及び臨床鑑定を実施した結果(以下「本件鑑定結果」という。)によれば、東京都監察医務院の死体検案書及び剖検標本についてのクオンの病理的所見は次のとおりであった。即ち、①顕微鏡的穿孔を伴う壊死性虫垂炎(進行性の急性虫垂炎で、局所の門脈系小静脈に壊死物質を入れる門脈炎を生じている。但し、肝に影響を与えない。)、②限局性化膿性腹膜炎(静脈炎を伴う)、③中程度の急性脾炎、④肺、肝、腎、副腎、甲状腺、脳膜などの諸臓器の浮腫並びにうっ血と出血(ショックに伴う病態)、⑤膵実質と周囲脂肪組織の出血と変性壊死(死後に生じた自己融解現象と考えられた。)である。なお、脳、心臓、肺には、直接死因に結び付く病理所見は認められなかった。

そこで、右鑑定人らは、クオンの死因について、壊死性虫垂炎に起因して局所性化膿性腹膜炎を起こし、腹膜炎ショックにより死亡したものとし、前記8の東京都監察医務院における死因の判断については、(「腹膜ショック」を「腹膜炎ショック」と読み替えた上)妥当であるとの結論に至った。また、右腹膜炎ショックの原因については、何らかのグラム陽性菌からのエキソトキシン(菌体外毒素)による細菌性ショックであると判断した。

三  争点一(クオンの死因)について

1 右二の各事実及び本件鑑定結果によれば、クオンは一九八九年(平成元年)四月二七日の被告病院受診当時、既に急性虫垂炎に罹患していたものであるところ、右虫垂炎は更に、穿孔にまでは至らないものの壊疽性虫垂炎に進行し、そのころないしその後に、右虫垂炎に起因して虫垂周囲に局所性化膿性腹膜炎を併発するに至っていたものであり、そして同人は、右壊疽性虫垂炎及び局所性化膿性腹膜炎を引き起こした何らかのグラム陽性菌のエキソトキシン(菌体外毒素)により、腹膜炎ショック(エキソトキシンショック)を起こして死亡したものと認められ、右認定に反する証拠はない。

2(一)  この点、被告は、虫垂炎にしても腹膜炎にしても軽微な炎症であって、右炎症からショックに至る可能性はない旨主張する。

しかしながら、まず、急性化膿性虫垂炎に起因して局所性腹膜炎に罹患し、右炎症により腹膜炎ショックに至ったとの点については、証人青木利彦、同桑原紀之の各証言及び本件鑑定結果によれば、クオンの虫垂炎はかなりの程度進行し、炎症としては極期に近い状態であった上、顕微鏡的な穿孔を伴い、局所的に壊死していたこと、腹膜炎も局所的ではあるが、かなり強い炎症を起こしていたこと、諸臓器にショック死であることを示すうっ血と出血が認められたこと、クオンの場合、死亡との関連が疑われる可能性のある病理学的異常は虫垂及びその周辺に認めるのみであったこと、が認められるのであるからこの点の被告の主張は採用できない。

(二)  また、右被告は、クオンの死亡原因をエキソトキシンショックとする本件鑑定結果は、その根拠が不十分であると主張する。証人桑原紀之及び本件鑑定結果によれば、一般にショックの原因については低血量性ショック、心臓性ショック、細菌性ショック及び神経性ショックに分類されるところ、クオンには虫垂及び腹膜の炎症があったものであるから、腹膜炎ショックの原因は細菌性ショックであると考えられること、右細菌性ショックについては、グラム陽性菌からのエキソトキシンとグラム陰性桿菌からのエンドトキシン(菌体内毒素)が問題とされること、エキソトキシンとは、菌体の発育中に産生され、菌体内から分泌される毒素であり、グラム陰性桿菌の菌体の破壊により放出される毒素であるエンドトキシンに比して一般に毒性が強いものとされ、急激に病変が進行すること、したがって、エンドトキシンショックの場合には、生体の防御機構が全て衰弱しきっているような症例や、全身的に多臓器の器質変性が高度で、いかなる治療にも反応しないような状態に陥った症例など前駆状態のある場合にみられるのに対し、本件の場合には、クオンの病態及び死に至る経過の急激性(敗血症性の病変が出ておらず、炎症が長引いた所見がない。)、重症性及び不可逆性から考えて、エキソトキシンショックと考えれば医学的に説明可能であること、一般に細菌性ショックの場合にはエンドトキシンショックに関心が集中しているが、これは抗生物質療法が発達したことが原因(エキソトキシンは、菌体の成育中に産生されるものであるため、抗生物質療法が非常に有効であるとされている。)に過ぎず、細菌性ショックの原因菌としてのグラム陽性菌とグラム陰性桿菌の頻度は約一対二(三二パーセント対六八パーセント)であることからも、基本的にエキソトキシンショックを考慮すべきであること、にあるのであるから、その推論過程に格別の不合理な点を見いだすことはできず、本件鑑定結果は信用し得るものというべきである。

3  また証人桑原紀之は、エキソトキシンが抗原として関与したアナフィラキシーショック(血清、薬剤などの注射による抗原抗体反応により惹起されるアレルギー反応)の可能性も否定しきれないと証言するが、他方証人青木利彦の証言によれば、東邦大学付属大森病院のカルテ(乙三の2)中には、アナフィラキシーショックであることを示す所見は見当たらないというのであるから、右証言については採用できない。

四  争点二(被告の過失の有無)について

1  虫垂炎の臨床的所見及び診断方法について

本件鑑定結果によれば、虫垂炎は急性腹症(腹痛を主訴とし緊急開腹手術の可否を早急に決定しなければならない急性腹部症候群の総称)の中でも比較的多い疾患であり、その臨床的所見としては、前駆症状として倦怠感を訴えることが多く、時に嘔気、嘔吐を伴うこと、腹痛は心窩部痛(上腹部痛)あるいは腹部全体の不快な痛みから始まることが多く、次第に右下腹部の限局性持続性疼痛となること、その診断方法については、①特異的圧痛点(ランツ圧痛点、マックバーネー圧痛点等)の存在、②筋性防御反射(腹膜炎の兆候で、炎症が虫垂漿膜及び体壁腹膜に及んだ場合に出る筋性防御反射。ただし、虫垂が盲腸後面、または小骨盤腔に存在するときには不明である。)の有無、③反動痛(右下腹部を圧迫したときよりも、急に手を離して圧を去った時の方が疼痛が顕著であること。ブルンベルグ徴候ともいう。)の有無、④直腸指診(炎症を有する虫垂が小骨盤腔に存在するときは、腹壁上からの圧痛点は不明であるが、直腸指診で、直腸右側に圧痛があるのが唯一の所見であることがある。)、⑤腸腰筋症状(右股関節を屈曲させたり、伸展させたりすると痛みが増強する症状)の有無、⑥白血球数の増加(病変の進行に応じて増加する。)と分画像の幼若化の有無、⑦体温の上昇の有無(病状進行とともに上昇する。腋窩体温だけでなく直腸内体温の測定が重要であり、炎症の進行に伴い、腋窩体温と直腸内体温の差が大きくなる。)、を検討することが一般的であること、がそれぞれ認められる。

2  そこで被告の過失について検討するに、被告はクオンとの間で診療契約を締結したのであるから、右契約に基づき、クオンに対し、診療当時のいわゆる臨床医学の実践における医療水準にしたがって治療行為をなすべき債務を負担するものと解される。そして、急性腹症の場合に、緊急開腹手術の要否を検討しなければならないとされるのは、もし適切な時期に開腹手術ないし適切な治療行為がなされなければ、患者の生命にさえ危険が及ぶ可能性があるためであると考えるられるから、腹痛を主訴とする患者に対し診察をする医師としては、急性腹症の可能性を考えできるだけ早急に確定診断をすべく、医学上一般的に認められている方法により検査を尽くすべき診療契約上の義務が存在するというべきである。

これを本件について検討すると、前記第三の二の2ないし5の各事実及び本件鑑定結果によれば、

(一) クオンは本件診察の三日前である四月二四日ころから腹部に不快感を訴えており、同月二七日には間歇性の激しい腹痛に襲われるとともに、同日の本件診察の際にも、心窩部から臍部にかけての腹痛を訴えていたこと、

(二) クオンの診察の際の腋窩体温は36.8度とほぼ平熱であり、石井医師は、クオンに対して、腹部全体についての筋性防御の有無、腹部単純レントゲン写真撮影による腸腰筋陰影の不明瞭化の有無及び白血球数の検査を実施したこと、右各診察によっても、筋性防御及び腸腰筋陰影の不明瞭化は認められなかったが、白血球数は一万四〇〇〇と増加しており、何らかの感染症の存在が疑われたこと、

(三) 急性虫垂炎は急性腹症の中でも比較的多い疾患であり、石井医師も本件診察当時、右感染症として急性虫垂炎の可能性を念頭に置いていたこと、

(四) しかしながら右診察の際には、右各検査の他にマックバーネー点、ランツ点等の各圧痛点検索、直腸指診及び直腸内体温測定については行われなかったこと、右圧痛点については、虫垂炎の場合には重要な他覚的所見とされていること、直腸指診については、臨床上きわめて基本的な検査であり、アメリカにおいては内科・外科のあらゆる患者に必ず行われていること、本件においてもクオンが下血を訴えていることから有効な診断方法であるといえること、また直腸内体温測定については、炎症が進行するにつれて腋窩体温と直腸内体温との差が拡大することから、虫垂炎の診断において極めて重要な意味をもち、かつ臨床上、腋窩体温では発汗、苦痛のために不確かな結果しか得られない場合が度々存在すること、

(五) 石井医師は、クオンの点滴中に、経過観察のために助手を派遣したり、また自ら赴くなどしており、右各検査をなし得る時間的余裕はあったものといえること、

がそれぞれ認められる。

以上の事実からすれば、本件において石井医師は、腹痛を訴えるクオンの白血球数が増加しており、急性虫垂炎との疑いも持ったというのであるから、更に確定診断に至るべく、少なくとも各圧痛点検索、直腸指診及び直腸内体温測定を実施すべき義務があるものというべきところ、これを怠ったものといわざるを得ない。そして、以上の事実に加えて、クオンについては白血球数増加等、診察当時から虫垂炎を疑うに足る症状の一部が出現していたこと、クオンに対する病理解剖の結果、クオンの虫垂は急性化膿性虫垂炎ないし壊疽性虫垂炎に罹患しており、診察当時においても、虫垂炎はかなりの程度進行していたものと考えられること、からすれば、右各検査を尽くしていれば、急性虫垂炎であるとの確定診断に至った蓋然性は高いというべきである。

3  また、証人平井慶徳の証言及び本件鑑定結果によれば、急性虫垂炎であるとの確定診断に至った場合、白血球数の増加からクオンの虫垂炎が更に感染症に至っていることは明らかである以上、虫垂切除手術を考慮することはもちろんであるが、何らかの理由で診察を翌日に継続するのであれば、医師としては少なくとも抗生物質の投与はするべきであると認められる上(証人石井裕正も、虫垂炎の確率が非常に高ければ抗生物質を投与することを認めている。)エキソトキシンは菌体の生育過程で産生されるものであるから、その性質上抗生物質療法がきわめて有効であること、抗生物質は投与後三〇分程度で血中濃度が一定の値まで上昇するため、本件診察後、死亡に至る時間的経過を考慮しても相当の有効性が期待できることがそれぞれ認められることからすれば、右抗生物質の投与により、エキソトキシンショックによるクオンの死亡が回避できた蓋然性もまた高いものというべきである。

4 以上の検討結果からすれば、被告は、クオンに対する本件診察に際し診療契約上の義務に違反し、必要な諸検査の実施を怠ったことにより急性虫垂炎との確定診断に至らず、更に病変を進行させてクオンを急性虫垂炎に起因する腹膜炎ショック(エキソトキシンショック)により死亡するに至らせたものであるから、クオンの死亡により生じた損害を賠償する責任があるものと言わなければならない。

五  争点三(原告らの損害)について

1  クオンの逸失利益について

前記認定事実(第二の一の1の(一))及び甲一二、一三号証によれば、クオンは、ペルー共和国国立工学大学鉱山学部を卒業した後、同大学冶金学部助教授、マクギィル大学冶金工学部(カナダ)大学院を経て、一九七九年一〇月からミンペコ・エス・エーに勤務したこと、一九八三年一月一日から鉄鉱石部長の職にあり、更に一九八七年一〇月ころから一九八九年四月に死亡するまでの間は同社極東事務所(東京都港区)のディレクター(所長)の地位にあって、右在職期間中約一四〇〇万円の年収を得ていたものであることがそれぞれ認められる。そして、クオンはペルー国籍の者であるが、相当の学歴・経歴を有し、かつ現実に我が国において給与収入を得ていた以上、特段の事情の認められないかぎり、逸失利益の算出にあたっては右死亡直前の年収額を基礎とし、六七歳までを稼働可能年齢として計算すべきである。

よって、右年収額一四〇〇万円を基礎とし、六七歳までのおよそ二二年間の逸失利益について、生活費控除を三〇パーセントとしてライプニッツ係数を用いて計算すると、左記の計算式のとおり、一億二八九九万七四〇〇円となる。

14,000,000×(1−0.3)×13.1630=128,997,400

2  右逸失利益の相続について

法例二六条は、相続の準拠法は被相続人の本国法によると定めているから、右逸失利益の相続についてはクオンの本国法であるペルー共和国法が準拠法となる。そこで同国の民法によれば、相続は被相続人の死亡によって開始し(六六〇条)、配偶者と子が第一順位の相続人となり(八一六条)、すべての子の相続分及び配偶者の相続分はすべて均等と定められている(八一八条、八二二条)から、右各規定により、妻と子である原告らはいずれも右逸失利益を四分の一ずつ相続した。したがって、原告らはクオンの逸失利益について、それぞれ三二二四万九三五〇円の損害賠償請求権を有する。

3  原告らの慰謝料について

原告らは民法七一一条により、クオンの死亡による慰謝料請求権を有するところ、クオンの死亡当時の年齢、妻と三人の子(内二人は未成年者)という家族構成、社会的地位、死亡当時の状況及び本判決が認定した死亡に至る経過をも考慮すれば、クオンの死亡による慰謝料は、原告イネスについて六〇〇万円、その余の原告らについてそれぞれ三〇〇万円とするのが相当である。

4  弁護士費用について

弁論の全趣旨によれば、原告イネスは、原告ら訴訟代理人との間で訴訟委任契約を締結し、相当額の報酬を支払う旨約したことが認められるが、本件訴訟の内容、経過、認容額等諸般の事情を考慮するならば、本件と相当因果関係のある弁護士費用としては、原告イネスについて五〇〇万円とするのが相当である。

5  以上からすれば、原告らは、被告に対し、不法行為ないし債務不履行による損害賠償請求権に基づき、原告イネスについて四三二四万九三五〇円、その余の原告について、それぞれ三五二四万九三五〇円を請求できるところ、原告イネスについて二五〇〇万円、その余の原告について一〇〇〇万円の限度で請求している。

六  結論

よって、右損害賠償の一部の支払を求める原告らの請求はいずれも理由があるので認容し、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官佐藤康 裁判官稻葉重子 裁判官竹内努)

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